神奈川県三浦郡の葉山町にある平屋の古民家をリノベーションし、みんなで宿づくりをするプロジェクト「日本の暮らしをたのしむ葉山の平屋」。
古民家オーナーYakkoさんの「家族の想いを引き継いで残していきたい」というお家への想いから、このプロジェクトが始まりました。地域の方や様々な方々と場づくり・宿づくりのためのイベントやワークショップを繰り返し、開業から今に至ります。
回想記シリーズ Vol.2は「そこにあったかつてのあり方」のお話です。オーナーYakkoさんのご家族の思い出話・貴重なご経験のお話から、この平屋のあり方に想いを馳せてみてはいかがでしょう。
本記事は2019年11月18日に別サイトにて公開された内容を再投稿したものです。
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80年前、平野邸一階の奥の間で生まれましたオーナーのYakkoです。昔の葉山の暮しを皆様に知っていただきたく、ブログに初挑戦しています。
私の家族は、葉山にやってくる前は樺太(現サハリン)で暮らしていました。
両親が新婚時代を過ごしたのも、3人の姉達が生まれたのも、樺太の大泊(おどまり)町というところです。
港町で、今はコルサコフという名前になっていますが、そこでの暮しについて触れさせて下さい。とくに食べ物について。
樺太にいたころ、姉達は幼稚園に通っていました。私立大泊幼稚園。幼かった事もあり、思い出というと大体は食べ物がらみです。
動物型のビスケットが、幼稚園のおやつに出たとか(このビスケットは「動物ヨーチ」というもので、今でも駄菓子屋さんや和菓子屋さんで売っていることがあります)、ロシア人のパン屋さんのジャムパンがおいしかったとか。戦時中に生まれ、食糧難の時代に物心ついた私は、食べ物が豊富だったというだけで、樺太の暮しに憧れたものです。
姉の一人は、生涯を通じて動物ヨーチが好物でした。「三つ子の魂、百まで」と言いますが、幼稚園でヨーチが出ても、忘れられなくなるのでしょう。
また母と姉達は、フレップという木の実をよく摘みに行きました。いわゆるコケモモのこと。ハスカップ、リンゴンベリーとも呼ばれます。
母はフレップのジャムをしばしばつくっていたそうです。その影響か、今も私はジャム作りに凝っています。今年の夏は、あんず、ルバーブ、すもものジャムをつくりました。
いつも樺太にいたわけではありません。船や列車を乗り継いで、東京を訪れたこともありました。有楽町で宝塚歌劇を見たり、日本橋の百貨店で洋食やアイスクリームを食べたりしたようです。
葉山に移り住んでからも、姉達は樺太時代の思い出話をしょっちゅうしていました。物資が乏しくなった戦時中はとくにそうです。
あまり何度も聞いたせいで、私も樺太で暮らしたような気になるくらい。そのころはまだ、生まれていなかったのですが。
二番目の姉は生涯独身で、両親が亡くなった後も葉山の家に住み続けました。小さい頃、東京旅行の際に連れて行ってもらった宝塚の舞台がよほど華やかに思えたのでしょう、ずっと「宝塚ファン」を貫きます。
とくに自慢していたのが、『花詩集』の舞台を観たこと。1934年(昭和9年)、東京宝塚劇場のこけら落としに上演された作品なのです。宝塚創立100年にあたる2014年(平成26年)、『花詩集100!!』として改訂上演されましたが、「初演から観ている私のようなファンは少ないはず」と語っていました。
父は葉山に移り住んだあと、相撲の枡席を持っていました。バーの「ボトルキープ」と同じで、特定の席をずっと押さえておくわけです。
仕事の取引先などを接待するのに使うのですが、時には姉達も連れていってもらった模様。お茶屋で千代紙やお菓子を頂いたあと、相撲観戦を楽しんだそうです。
「戦前」というと、暗く貧しいイメージがあるかも知れませんが、必ずしもそうではないのです。当時、逗子で数台しかなかったタクシーを借り切って、親戚と箱根に行ったことまであったとか。むろん私は、そのような体験はしていません。
葉山に残った姉も、昨年亡くなりました。
(※注 :本記事は2019年11月18日に公開されました。)
遺品を整理していたところ、双葉山(戦前の人気力士)のブロマイドなどに混じって、母の黒い羽織が出てきました。ところが、その裏地を見てびっくり。レビューの踊り子達が舞台で踊っている絵柄だったのです。
私にとって母は、いつも割烹着姿で家事を黙々とこなす存在でした。その母が、こんな遊び心を持っていたとは。同じ屋根の下で暮らしていようと、人間は分からないものです。
タクシーを借り切って箱根に行った話も、長らく半信半疑でした。ところが遺品整理の際、天袋から父が撮った8ミリフィルムが出てきます。
DVDに変換したところ、両親や姉達が、親戚一同と箱根の強羅(ごうら)公園に出かける様子が映っていました。よく知っていたはずの家族が、私の生まれる前にこんなことをしていたのだと思うと、とても不思議な気持になりました。
樺太にいたころ、家族は洋風の家に住んでいました。だからというわけでもありませんが、葉山に移ったあとも、食卓にはよく洋食が出てきます。
ボルシチ、コロッケ、ロールキャベツ、タンシチュウ、オートミール,コキーユ(帆立などの貝類)のグラタンにライスカレー。海辺の町らしくヒジキの煮物、新鮮なお刺身などもありましたが、アジフライ、サバのマリネ、チャプスイ(中華炒め)等、魚料理でも洋風、中華風が多かったのです。
もっとも戦時中になると、そうは行きません。庭は畑になり、食事もサツマイモ(今と違って甘みがないのです)や水団(すいとん)ばかりになりましたが、その話はまたいずれ。
戦争が終わっても、食料事情がすぐに良くなったわけではありません。しかし翌年、父がボルネオ島から帰国したあとは、ぐっと改善されます。
仕事の人脈を活かして、地方から食べ物を手に入れてきてくれたのです。姉達も進駐軍(日本を占領したアメリカ軍をこう呼んだのです)でタイピストや通訳をしたり、軍の教会でオルガンを弾いたりして、チョコレートやケーキ、缶詰をもらって来てくれました。
父はよく釣り船に乗っては、サバやアジなどを持ってきました。バケツ何杯分もです。そのたびに母は、ご近所に配ったり、サバのマリネやアジの中華風甘酢あんかけを作りましたが、正直、ありがた迷惑という感じでした。
葉山と宝塚に生涯を捧げた姉は、お菓子作りも得意でした。ピースドメスティックオーブン(平和家庭オーブンという戦後らしい名前ですが、オーブンとは名ばかり。ガスコンロの上に乗せて、中に入れたものを焼くだけの器具です)で、シュークリームやプリンをつくってくれたのを覚えています。
葉山と宝塚に生涯を捧げた姉は、お菓子作りも得意でした。ピースドメスティックオーブン(平和家庭オーブンという戦後らしい名前ですが、オーブンとは名ばかり。ガスコンロの上に乗せて、中に入れたものを焼くだけの器具です)で、シュークリームやプリンをつくってくれたのを覚えています。
葉山は海の幸のみならず、山の幸にも恵まれています。
平野邸にいらっしゃった皆様も、ぜひ豊かで多彩な食卓を囲んで、楽しいひとときをお過ごし下さい。
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とても素敵な回想記です。温かいご家族の様子が良く伝わってきます。こんなにも温かい思い出が詰まったお家だからこそ、多くの人を惹きつけているのだと思います。