平野邸 Hayama

平野邸オーナーYakkoの葉山暮らし回想記 -Vol.3-

平野邸オーナーYakkoの葉山暮らし回想記 -Vol.3-

yakkoさんの回想記も3回目。

今回は葉山の「そこにあったかつてのあり方」のお話です。

穏やかな葉山暮らしに戦争の影が立ち込め始めます。

これまでの日々とどのように変わっていくのか。

ぜひこれまでの記事とあわせてご覧ください。

\これまでの記事/
回想記Vol.1
回想記Vol.2

以下回想記Vol.3は2020年4月11日に公開された内容です。

平野邸生まれ80歳のYakkoです。
昔の葉山暮らしを皆様にご紹介したく、ブログに初挑戦中です。

このたびは素敵な畑を、イベントで庭に作って頂きありがとうございました。

平野邸の庭は、昔は芝生になっていました。植木屋さんがいつも出入りしていたので、裏庭には専用のトイレまであったのです。今では板で封じられ、使えなくなっていますが、私も子供のころには使いました。

庭でかくれんぼや鬼ごっこに夢中になっているときなど、家の中のトイレまで行くのが面倒で、ここで用を足したのです。家の中のトイレは水洗式だったのですが、外のトイレは汲取式でした。暗いので怖かったのですが、我慢できないものは我慢できませんので。

この家の近くには、ご存じ、葉山御用邸があります。
戦前の日本では、御用邸の周辺は全てが清らかでなければいけなかったようです。わが家にしても、水洗式のトイレを取りつけるには、浄化槽をいくつか作り、水を完全にきれいにする必要がありました。その際に掘った土が、庭の築山になったと聞いています。

戦時中、庭には畑と防空壕がありました。防空壕がつくられたのは、今の池のあたりです。

戦後、食糧事情が安定してからは、再び芝生や花壇に変わります。温室で蘭を作っていた時期もありました。

父は樺太から葉山に移ったわけですが、家を建てるにあたって、庭にはどの季節でも花が咲くように色々な木を植えようと考え、その様子を絵にまで描いていました。わけても椿の木は、珍しい花を咲かせる品種のものが、門から玄関までたくさん植えられていたのです。今では枯れてしまっていますが。

子供時代には、家のまわりは畑ばかり。ご近所のお家も大きな庭がありました。
そのせいか、夏になると蛇がよく出てくるのです。アオダイショウという本当に大きな蛇(日本に棲息する蛇の中では最大だそうです)が、玄関の前の植木の枝を渡っていったこともありました。
ちょうど太い縄が動いてゆくような感じです。昼寝でもしていたのか、二本の枝を股にかけて横たわっていることもありました。

いつも真面目な顔で家事に励んでいた母が、庭で時たまキャア! と金切り声をあげると、蛇に出くわしたしるしです。蛇はいろいろな家をめぐることがあり、「屋敷廻り」と呼ばれます。また不気味なイメージが強いものの、蛇のぬけがらは商売繁盛のお守りとされていました。もっとも家の周囲にたくさん新しい住宅が建ってから、ここ何十年はとんとお目にかかりません。

父が葉山に家を建て移り住むことにしたのは、材木商の仕事が軌道に乗ったためでもありますが、樺太で生まれた娘達の身体が弱かったためでもありました。

葉山は気候が穏やかなうえ、夏は涼しく、冬は温暖。ここから健康に良いと考えたのです。当時は結核療養所も湘南地域にありました。

けれども母にとって、新婚時代から楽しく過ごしてきた樺太を後にするのは、むしろ辛かったようでした。船で大泊港を旅立つとき、母が甲板で泣いていたのを、三番目の姉は見たと言っています。

飛行機がまだまだ発達していなかった当時、海を越えるには船に乗るしかありません。出航の際には、船の甲板にいる人々と、港で見送る人々が、紙テープの両端をそれぞれ握っています。船が離れてゆくと、紙テープも引っ張られて切れるのですが、それが別れの実感を高めたということです。

三番目の姉は、このときまだ四歳ぐらい。それでも父が、靴のベルトに紙テープを結んでくれてリボンのように見えたことが、とても嬉しかったとか。大勢の人たちが手を振り、紙テープを投げながら見送ってくれたことが忘れられないようです。

樺太の家には、女中さんが何人かいました。住み込みのお手伝いさんのことです。このころは「ねえやさん」という呼び方が一般的でしたが、我が家では親しみをこめて「ねっちゃん」と呼んでいました。家事を担うわけですが、かわりに勤め先の家で、行儀や作法を習うこともあります。

樺太を離れるとき、姉たちのひな人形や着物などは、お世話になったねえやさんたちにあげてきたそうです。戦争末期、樺太の日本人は大変な思いをすることになりますが、その前に本土に戻ってきたことを願っています。

葉山に家が建ち、姉たちは近くの小学校に通い始めました。葉山小学校です。昨年亡くなった二番目の姉の遺品を整理していたとき、家の天袋から父が83年前に撮影した古い8ミリフィルムが出てきました。修復し、DVDに変換してもらったのですが、姉たちの登校風景が映っています。

今と違って道は舗装されていません。家の周りも、ブロック塀ではなく生け垣で囲まれていました。

一番目と二番目の姉は、横浜の女学校に進学しました。

アメリカ系のミッションスクールで、むろん私立です。

戦前、「中学校(旧制中学)」に行けるのは男子のみで、女子は「女学校」に行くものと決まっていました。
進学先を選んだのは母です。

娘時代、母は東京の専門学校に通っていましたが、実家が千葉なので寮に入っていました。ところが寮母さん(この人も先生です)のお嬢さんが、その女学校に通っていたのです。

あまりにお洒落で素敵だったから、娘が出来たら必ずそこに入れようと決意したとのこと。
戦前も都市部では、教育ママがけっこういたのです。

三番目の姉と私は、小学校のときから、横浜にある別のフランス系のミッションスクールに通いました。横浜や東京の学校に電車通学するのは、葉山では当時からそれほど珍しいことではなかったのです。ご近所でも遠くの学校に子供達を通わせている家が数軒ありました。

上の二人の姉たちが通った女学校には、ピアノ室がありました。あちこちの家にピアノがあって、処分に困る人まで出るような昨今とは違います。体育かピアノか、どちらかの授業を選択できるようになっており、姉たちはピアノを選んだようでした。

じつを言うと、一番上の姉は「女学校に入ったらピアノを買ってほしい」と父に頼んでいたようです。ところが進学直前、父の事業が一時的に厳しくなりました。こうして母は、「そんな無理を言うわけにはゆきません」と諭します。けれども姉はあきらめきれず、なんと一人で楽器店に出かけていって、ピアノを買おうとしたとか。さすがに店員さんから「お父様と一緒に来なさい」と追い返されたとのことでした。

その後、事業がまた好転したのか、わが家にピアノがやってきます。置かれたのは二階、階段を上ってすぐの部屋でした。

そんなにまでして欲しがったピアノですが、一番目の姉の関心は、音楽から英語に移ってしまいます。女学校でも英語劇の上演などを楽しみ、英文学を勉強する為に東京の専門学校へ行きました。戦前は女学校を出ても、直接、大学に進むことはできなかったのです。

結局、ピアノを一番弾いていたのは三番目の姉でした。
戦時中、西洋音楽は「敵性音楽」などと呼ばれましたが、おかまいなしに窓を開け放し、クラシックのピアノ曲をじゃんじゃん弾いていたのです。母は注意するわけでもなく、娘の演奏を楽しんでいるようでした。世の中が息苦しくなる前の自由な暮しに思いを馳せていたのかも知れません。

しかし戦局が悪化するにつれ、そうも言っていられなくなります。

三人の姉は、それぞれの学校から工場に働きに行くようになりました。いわゆる「勤労動員」です。

二番目の姉が愛してやまない宝塚歌劇も、1944年(昭和19年)3月に劇場が閉鎖されてしまい、観ることができなくなりました。本拠地の関西では細々と公演が続いていたようですが、関東まで来ることができなくなったのでしょう。

私も空襲が怖いことを理由に幼稚園をやめました。
…というのは表向き。本当は幼稚園に行きたくなかっただけなのです。じつは二番目の姉にも、樺太時代、幼稚園に行きたくないからと言って勝手にやめてきた過去があります。姉妹は変なところが似るものです。

父は軍の仕事で東南アジアへ行ったきり、連絡が途絶えたまま。母も不安だったとは思いますが、子供達を飢えさせないよう、庭に畑をつくったり、買い出しに行ったり、「銃後の母」として頑張っていました。

買い出しとは、農家に着物や洋服などを持って行き、野菜やお米など、食べ物と交換してもらうことです。葉山あたりでは、藤沢近辺などによく行きました。

お金を出せば物が買えるのは、物が十分につくられ、ちゃんと流通しているときの話。このころの日本では、食べ物をはじめ、いろいろな物資がすべて不足していました。しかも空襲で鉄道網が破壊されるありさま。こうなると、お金を持っていても意味がありません。物々交換に頼らなければ、みな生きてゆけなかったのです。

「お父さんはもう帰って来ないわね」
気丈な母も、夜遅く、二番目の姉と泣きながら話したことがあるとか。じつは三番目の姉が聞いていたのです。専門学校に進んだ一番上の姉は、東京で寮生活を送っていました。

ピアノは結局、三番目の姉が、戦後、家を出るときに持ってゆくことになります。

戦中、戦後のわが家のエピソードは、まだまだありますが、このへんでやめておきましょう。

平野邸に再び音楽が流れ、戦時中とは異なる明るい畑で、素敵な作物が育つのを楽しみにしています。

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