神奈川県葉山町にある平屋の古民家を活用し、みんなで宿づくりに取り組むプロジェクト「日本の暮らしをたのしむ葉山の平屋」。この古民家で生まれ育ったオーナー、Yakkoさんによる「葉山暮らし回想記」今回は「生まれ変わった平野邸の親戚お披露目会」についてのお話です。
※この投稿は2021年3月27日にハロー!リノベーションのサイトで公開された記事です。
「平野邸Hayama」となったあと、初めて実家に帰ることに、私も内心ドキドキしています。行く途中、旭屋さんで買い物をしたり、海を眺めたりしていたので、すっかり夕方になってしまいました。
薄暗がりの中、久しぶりに門の前に立つと、昔より立派になった表札に、暖かい明かりが灯っています。金属製だった門は、黒い木でできた門に変わり、子どもの頃を思い起こさせました。門の左右は木の塀になっていますが、私が若かった頃は、木製の門で庭の周りは竹垣で囲まれていました。
門を開けると、玄関にいたる踏み石をフットライトが照らしています。庭の木々の向こうに、家の明かりが洩れています。ふんわりした暖かい明かりを見ていると、今でも姉や両親が暮らしており、私を笑顔で迎えてくれそうな気がして、胸がいっぱいになりました。 引き戸の玄関をカラカラ開けると、生成りの麻の長い暖簾が下がり、小さな花が飾られています。 家の中から、かすかな話し声と音楽が聞こえてくると、昔にタイムスリップしたような気持ちになり、「ただいま」と心の中でつぶやきました。じつはラジオから、地元FM局の放送が流れていたのです。普段はテレビの音声に馴染んでいる私ですが、このラジオも心を癒してくれる洒落た演出のひとつでした。
ラジオの音声には、不思議とテレビのような押しつけがましさがありません。「平野邸Hayama」に滞在した三日間、古き良き時代のジャズや、なつかしいクリスマスミュージックが流れていたのですが、それがこの家にはぴったりと調和して、良い雰囲気を醸し出してくれました。
茶の間の隣が台所ですが、ここは素敵なアイランドキッチンになっています。姉の使っていたガス台や冷蔵庫、食器などが、新しく設置されたものと一緒に置いてありましたが、違和感はまったくなく、きれいに馴染んでいました。
食器棚や、茶の間の文机は、戦前から使っていたものです。今も健在で嬉しくなりました。とはいえ、本当に驚き感動したのは、庭に面した廊下の角に古いミシンが置かれていたこと。私が物心ついたころは、母のシンガーのミシンが全く同じ場所に置いてあったのです。
ラジオの音声には、不思議とテレビのような押しつけがましさがありません。「平野邸Hayama」に滞在した三日間、古き良き時代のジャズや、なつかしいクリスマスミュージックが流れていたのですが、それがこの家にはぴったりと調和して、良い雰囲気を醸し出してくれました。
茶の間の隣が台所ですが、ここは素敵なアイランドキッチンになっています。姉の使っていたガス台や冷蔵庫、食器などが、新しく設置されたものと一緒に置いてありましたが、違和感はまったくなく、きれいに馴染んでいました。
食器棚や、茶の間の文机は、戦前から使っていたものです。今も健在で嬉しくなりました。とはいえ、本当に驚き感動したのは、庭に面した廊下の角に古いミシンが置かれていたこと。私が物心ついたころは、母のシンガーのミシンが全く同じ場所に置いてあったのです。
かつて私が生まれた奥の部屋は会議室となり、長いテーブルと椅子が置いてあります。それらを少し動かしてもらい、布団を敷いて寝ることにしました。隙間風が入って寒いのではないかと心配していたのですが、全くそんなことはなく、ゆっくりと熟睡できました。
お気に入りの丸窓も健在でしたし、床の間のしつらえにせよ、モダンなインテリアにせよ、かつての雰囲気を全く壊していないのを嬉しく思いました。さらに風情のある草花が飾られるなど、何気ない心遣いがあちこちに感じられ、居心地よく滞在をすることができました。
会議室ではスクリーンを下ろして映画も見ることができるとのことでしたので、Netflixを初体験させていただき、大いに楽しみました。母は映画が大好きで、戦後、幼い私を連れて、逗子や鎌倉の映画館に足繁く通ったものです。昔のたたずまいを残したこの家で、映画館さながらの大画面を鑑賞できる日が来るとは、母も夢にも思わなかったことでしょう。
葉山メダカとの対面も楽しみにしていたのですが、残念ながら叶いませんでした。寒いので冬眠(?)していたのかも知れません。よどんでいた池が、きれいに澄んだ水をたたえるようになったのを見て、かつて兄が魚を飼っていたことを思い出しました。
以前も書きましたが、私には樺太で生まれた3人の姉と、こちらで生まれた兄がいます。兄は横浜の病院で生まれ、私は奥の和室で生まれました。姉たちとは年が離れていたので、小さいときの遊び仲間はもっぱら兄でした。
今よりも男女差別が激しく、跡取りとなる男児がいることが重要だった時代です。両親もやっと生まれた一人息子に期待をかけていました。兄が生まれるとすぐに、庭に落ちて怪我をしては大変だと、縁側に全て柵を取りつけたほど。
その後も三越の写真館に何度も行っては、両親と兄だけ、あるいは兄だけで写真を撮っています。私はねえやさんと一緒の写真か、戦地の父へ送るために姉弟全員で撮った集合写真しかありません。
母は教育ママの本領を発揮、兄の名前を連呼して「勉強しなさーい!」とご近所に響き渡る声で叫びます。真名瀬に向かう上の道からも聞こえたくらいですが、マイペースな性格の兄はみごとに馬耳東風、家を抜け出しては海や川、あるいは田んぼに行って、虫や魚と遊んでいました。
兄は生き物が大好きで、中学・高校時代、女中部屋で熱帯魚を飼っていたこともあります。玄関の右横、今は倉庫として施錠されている部屋です。ところがある日、熱帯魚の水槽を洗っているとき、うっかり魚を流してしまいました。優しい性格の兄は、泣きながら裏庭の下水まで探しに行ったものです。敗戦後、食料の乏しい時代に、飼っていた鶏をつぶして食べた際も、かわいそうだと泣いていました。
体の弱い兄は戦争中、しょっちゅう感染症になり、奥の部屋で隔離されていました。看病していた母は、貴重品の砂糖を使った葛湯などを、特別に飲ませてやります。私は縁側のガラス越しに、兄が優遇されるさまを、うらやましく眺めていました。
兄は長じてからも釣りが得意で、色々な魚を釣っていました。「海ではその人の地位や学歴、バックグラウンドなどは一切関係ない、釣りの技術だけだ」が口癖。両親の勝手な期待や、姉や妹の喧騒、世の中の煩悩に左右されることなく、魚との世界に没頭してきました。兄は兄で、独自のスタンスを貫き、幸せな人生を生きていると思います。
そんな兄をご存じの方が、平野邸を訪れてくださっているとうかがいました。感無量です。幼いときから遠くの学校に通い、早く結婚して家を出た私より、兄はずっと葉山に根ざしていたのでしょう。
今では年齢相応に忘れっぽくなった兄ですが、姉が亡くなった後で久しぶりに訪ねたところ、とても懐かしそうに笑顔で迎えてくれました。幼い頃、兄や近所の友達と一緒に、葉山の野山や海で遊び回った日々は、ずっと私の宝物です。
アテネ、リオデジャネイロ、サンパウロと、若い頃は海外生活が多かった私も年齢を重ね、葉山に対する思いも変わってきました。昔は生まれ育った場所を早く出て、新しい世界へ行ってみたいと強く思っていたのですが、振り返ってみると、いつでも帰れる「ふるさと」があったからこそ、どこへでも飛び立ってゆき、どこにいても落ち着いた生活ができたのだと思います。
葉山の実家こそ、その「ふるさと」の中心であり、心のよりどころだったのだと、今回の滞在で実感しました。古い部分を残したまま、新しくモダンな雰囲気を加えられた「平野邸Hayama」も、懐かしくあたたかい心のふるさとでありつづけるでしょう。