神奈川県三浦郡葉山町にある平屋の古民家を活用し、みんなで宿づくりに取り組むプロジェクト「日本の暮らしをたのしむ、みんなの実家」は、この古民家で生まれ育ったオーナーYakkoさんの「家族の想いを引き継いで家を残していきたい」という想いから始まりました。「葉山暮らし回想記」は、そんなYakkoさんによる連載シリーズ。
こちらは新しい記事になります。
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たいへん、ご無沙汰しております。Yakkoです。
新型コロナが5類に移行し、街にも賑わいが戻ってまいりましたが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
コロナ禍でなかなか会えなかったお友達と、久しぶりに再会したいと願っていましたが、自粛生活の間に体調を崩したり、足腰が弱ってしまった方も多く、相変わらず、オンラインや手紙でおつきあいを続けています。
感染拡大は目立たなくなっただけで、じつは続いているとのこと。私達、高齢者は以前にもまして、気をつけねばなりません。対面でいろいろ話せる日はまだまだ先となりそうです。
2023年、世界ではウクライナ戦争の長期化、地球沸騰とも言われる気候変動、さらにパレスチナにおける人道危機など、不穏なニュースが続きました。
けれども、個人的には嬉しいニュースがあります。生まれ育った実家、つまり現在の平野邸Hayamaが、「旧平野家住宅主屋」として、国の有形文化財に登録していただけることとなったのです。ご協力いただいた皆様に、この場を借りて厚く御礼申し上げます。
葉山町の登録有形文化財は、旧平野家で10棟目。いわゆる「キリ番」(切りのいい番号)となりましたが、これまでの9棟は「旧東伏見宮葉山別邸」をはじめ、素晴らしい豪邸ぞろいなので恐縮しております。
この家は昭和の時代に、ごく普通の家族が日常を過ごしただけのものです。材木商だった父が図面を引き、地元の大工さんと建てました。有名な建築家が設計したわけではありませんし、高名な方が住んでいたり、富裕層や華族の別荘だったりしたこともありません。
そのような建造物を、果たして有形文化財にしていただけるのかと、内心では疑問に思っておりました。2023年11月24日、無事に登録されたとの報に接したときは、感激しつつも驚いたものです。
平成の始め、1990年代前半ぐらいまでは、葉山にも戦前に建てられた家があちこちに残っていました。とはいえ、2020年代も半ばとなった今では、軒並み姿を消しています。800棟以上あったものが、200棟前後にまで減ってしまったとか。
子供の頃、よく遊びに行ったお友達の家や、ご近所の家も、次々に解体されてゆきました。わずかに残ったものも、たいてい住む人がいなくなり、荒れて崩壊寸前となっています。
どれも、もともとは立派な邸宅。
きちんと維持していれば、そろって有形文化財に登録されたことでしょう。
その意味で、今回の文化財登録のひそかな立役者は、ここに住み続けた二番目の姉かも知れません。
生涯独身だった姉は、両親が亡くなったあとも引っ越そうとせず、2017年、つまり平成が終わる直前まで、この家に住み続けたのです。ほとんどリフォームもしなかったため、電気製品が新しくなったり、台所に給湯装置が取りつけられたりしたのを除けば、家の中は戦前の状態のまま。登録にあたっては、それが「昔の生活ぶりを伝えるもの」として評価されたのでした。
さらに姉は、戦中の物のない時代に青春を過ごしたためか、何でも捨てずに取っておく人でした。段ボール箱、包装紙、リボン、お菓子の入っていた可愛い缶、使用済みの古い切手、姉妹の学生時代のセーラー服の襟、女学校時代のノートや教科書、さらには甥達や私の娘の赤ちゃん時代のおもちゃや、子供向け雑誌の付録にいたるまで、逐一保管(?)していたのです。
かつての女中部屋など、ガラクタが天井近くまで積み上げられ、足の踏み場もありません。しかも高齢になるにつれて、ますます断捨離ができなくなる一方。葉山を訪れるたび、私は「そんな古いものまで、すべて取っておくから片付かないのよ!」などと口やかましく言っては、無理やり物を捨てていました。
ところが姉は、父が手描きした家の設計図面や、建設工事の見積書なども、大事に取ってあったのです。世を去る直前、姉は施設に移らざるをえなくなったのですが、その前に娘にたいし、家に関する書類がどこにあるか教えていました。
姉が亡くなり、遺品を整理するにあたって、娘はそれらの書類を保管しておこうと決めます。このことが大いに役立ちました。文化財として登録されるには、建物調査によって「その価値がある」と認められる必要があるものの、資料が最初から揃っている形になり、話がトントン拍子に進んだのです。
今回の件で、何件か取材を受けた際、ある記者から「よくこんなに速くできましたね。普通は何年経っても進まないんですよ」と言われました。登録を申請しようという話になったのは2022年3月でしたから、わずか1年8ヶ月で文部科学大臣への答申にあげていただいたことになります。
答申を行うのは国の文化審議会ですが、登録はこれに基づいて決まるのです。このときばかりは、物を捨てない姉の性格に感謝しました。
父の作成した図面です。
もっとも申請にあたり、苦労がなかったわけではありません。とくに大変だったのは、家の正確な築年月日と、二階部分の増築年月日を割り出すことでした。
この家が建ったのは、私の生まれる前です。二階の増築が行われたのも、生まれて半年も経たない頃。しかも私は五人兄弟の末っ子です。
三人の姉と、兄が上にいるせいで、家庭内での地位は低く、いつも員数外の扱いでした。家をめぐる重要な決定や、書類のありかなどについて、知らされたことはまるでありません。おまけに結婚で、家を離れてしまっています。
両親もまさか、私が実家を引き受けることになるとは思ってもみなかったでしょう。とはいえ、文化財にもなったことですし、両親があの家を葉山に建てた経緯を振り返りたいと思います。
1)家が建つまで
平野邸は私の父、平野武二が、昭和11年(1936年)に建築したものです。父は明治30年(1897年)2月10日の生まれですから、四十歳を目前にして建てたもの。
東京市京橋区(現・東京都中央区)出身の武二は、奉公先だった新潟の寒天屋で、向後儀三郎という人物と出会います。儀三郎は千葉県銚子の出身ですが、親友となった二人は、日露戦争でわが国の領土となった樺太(現サハリン)へ一緒に渡り、「平野材木店」を興しました。
大正14年(1925年)、武二は儀三郎の妹・まさと結婚します。まさは東京の専門学校で家政学を学んだあと、銚子で教師の仕事をしていました。夫婦は樺太で新婚生活を送り、三人の娘に恵まれます。
そのころの家族写真。まだ私はいません。
樺太での事業はうまく行っていたものの、長女と次女は身体が弱く、武二は当時流行していた肺の疾患にならないかと心配しました。、これをきっかけに、冬は温暖で夏は涼しい保養地として有名だった葉山に移り住む事を決意したのです。向後儀三郎も、すでに葉山に家を購入していました。
武二の妻・まさも、葉山への転居に賛成します。というのも、娘たちを横浜のミッション系女学校に通わせたかったのです。専門学校時代、まさは寮に入っていたものの、寮母の娘がくだんの女学校に通っており、洒落た制服姿に憧れていたのでした。
葉山を訪れた武二は、多くの別荘を見て回ります。そこで気づいたのは、見た目は立派でも、造りに問題のある屋敷が少なくないことでした。材木屋の視点から見ると、建材が悪かったり、しっかりと建っていなかったりしていたのです。
ふだんは住まないことを前提とするのであれば、それでも構わないのかも知れません。しかし父が建てようとしていたのは、毎日暮らすための自宅です。どんな家にするか、武二は材木と工法にこだわりました。
幼い娘たちが使いやすいよう、風呂場の洗面台は低くすることに決め、トイレは水洗式にしました。当時、大半の家のトイレは汲み取り式でしたから、時代に先んじていたのです。
ただし葉山には御用邸があるため、汚水を流すことは許されず、浄化槽をいくつも作らなければなりませんでした。この時代、御用邸の周りは全てが清潔でなければならないとされていたのです。
神奈川県知事による水洗トイレの設置許可証。
昭和11年(1936年)4月、工事見積もりを発注。仙元山のふもとに仮住まいをしながら、大工さんとともに図面を引いて建設を指揮しました。
同年11月25日、葉山町に分家届を出し、同年12月4日、京橋の戸籍から除籍。当時は「家制度」というものがあったため、戸主になるにはこのような手続きが必要だったのです。
こうして家はできあがりました。長くなったので、この先は次回、お話ししましょう。
家の予算見積書。大工さんの経費は229円だったようです。当時の1円は今の3000円ぐらいなので、だいたい70万円弱。材木代などは別だったと思われます。
後編に続く。