平野邸 Hayama

平野邸オーナーYakkoの葉山暮らし回想記 -Vol.8-(後編)

平野邸オーナーYakkoの葉山暮らし回想記 -Vol.8-(後編)

神奈川県三浦郡葉山町にある平屋の古民家を活用し、みんなで宿づくりに取り組むプロジェクト「日本の暮らしをたのしむ、みんなの実家」は、この古民家で生まれ育ったオーナーYakkoさんの「家族の想いを引き継いで家を残していきたい」という想いから始まりました。「葉山暮らし回想記」は、そんなYakkoさんによる連載シリーズ。

今回は前回に続いての記事になります。

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竣工当時、家は中二階の部分がなく、完全な平家でした。けれども、この状態は長く続きません。

 昭和12年(1937年)、待望の長男が横浜の病院で生まれたのです。子供が増えたことと、来客が増えたことを考慮し、昭和13年(1938年)、父・平野武二は中二階を増築することに決めました。

 仕事柄、料亭での接待が多かったことの影響か、中二階へつながる階段は料亭風のちょっと粋な設計になっています。昭和14年(1939年)、四女の私がこの家で生まれ、子供は全部で五人となりました。

増築のための図面です。

ちなみに家の建築年や増築年を確認する最も厳密な方法は、屋根裏(小屋裏とも言います)に登って棟札(むねふだ)を確認することです。

 棟札とは、建築をめぐる事柄を記した木や銅の札のこと。岩手県の中尊寺にある12世紀のものが最古とされます。重要な史料と見なされる場合も多く、棟札自体が文化財に指定される場合もあるとか。

 この家はもともと、玄関近くにある部屋の押し入れから天井裏に登ることができました。押し入れの天井板が外せるようになっていたのです。けれども「平野邸Hayama」として利活用を始めるにあたって、この入口を塞いでしまったため、棟札は探せませんでした。

 幸い、姉の残した書類には、建築許可証や水洗便所設置許可証なども含まれていました。ここから建築年や増築年を割り出したのです。何でも捨てずに取っておく姉の性格に、あらためて感謝しなければなりません。

増築の際の許可証。水洗トイレの設置許可証の画像は、前編をご覧下さい。

2)家ができてから

 雪深い樺太から移ってきた武二は、葉山の家の庭には四季を通じて花が咲くようにしたいと考えました。今度は庭の図面を作成、どこにどんな木を植えるかも自分で決めています。現在は枯れてしまったものも多いですが、昔は常時、植木屋が入って手入れにいそしんでいました。

父の作成した庭の図面です。

葉山に移ってからしばらくの間、武二は割合ゆったり過ごしていたようです。家族がくつろぐ様子や、向後の家族と一緒に旅行する様子を8ミリカメラで撮影したのもこの時期。

 その後は安宅商会に入社、木材部の設立に関わりました。明治37年(1904年)創業の安宅商会は、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)、社名を「安宅産業」に変更します。武二は軍属としてボルネオに渡り、材木関連の仕事に従事しました。敗色濃厚となったあと、帰国する機会は何度かありましたが、部下に船の乗船券を譲って最後まで現地に残ります。

 敗戦後は9ヶ月の抑留生活を経て、昭和21年(1946年)に帰国、安宅産業の木材部に復帰しています。同社は海外の支店や出張所が閉鎖され、存続の危機にあったものの、日本の復興とともに発展、十大総合商社の一つと謳われました。

 定年退職後、武二は「大林(だいりん)産業」を興します。「産業」というと壮大ですが、じつは材木関係の個人事務所。晩年は葉山で、妻まさや、独身を保った次女、つまり二番目の姉と暮らし、庭で菊の栽培を楽しむなど、悠々自適の日々でした。

武二とまさ。中央にいるのが二番目の姉です。

昭和46年(1971年)2月21日、父は家族に看取られて自宅で亡くなります。その二年後に生じた第一次石油危機をきっかけとして安宅産業は経営破綻に陥り、昭和52年(1977年)、伊藤忠商事に吸収合併されました。

 まさも昭和58年(1983年)に亡くなるものの、家には平成29年(2017年)まで、二番目の姉が住み続けます。前編にも書いたとおり、状態はほぼ昔のまま。

 平成30年(2018年)、二番目の姉が世を去ったことで、平野の家はいったん空き家となりました。とはいえ古民家としての価値が注目され、令和2年(2020年)よりコミュニティスペースおよび宿泊施設「平野邸Hayama」として、みなさんに利用していただいている次第です。

 文化財登録のために古い書類を探し、家の歴史をたどることで、生前は知る由もなかった両親の思いに触れることができました。

 この家を建てた両親にしても、ずっと住み続けた姉にしても、まさか登録有形文化財になるとは思いもよらなかったことでしょう。きっと皆、草葉の陰で喜んでくれていると思います。もっとも私は、嬉しいのと同時に、今後も守っていけるよう頑張らなくてはという責任も感じています。

 古い建物は生活するには不便ですが、私はとても落ち着きます。日本の家は木造が主流で、しかも地震が多いため、時代を超えて保存するのは容易ではないものの、結婚後に暮らした外国では、近代的な都市の中に、古い町並みや建物が残っているのが普通でした。

 結婚後、すぐに主人について渡ったギリシャのアテネや、三番目の姉が留学していたイタリアのローマなど、紀元前の古い建物までが、たくさん残っています。

 主人はその後、ブラジルのリオデジャネイロに駐在しましたが、このときは私達もかなり古いマンションに住むことになりました。マンション内のエレベーターは、扉が蛇腹式になっている旧型のもの。日本でも以前、日本橋の三越本店にこんなエレベーターがあったと記憶しています。

 見た目はクラシックでとても素敵なのですが、しょっちゅう階と階の間で止まってしまいます。つまり閉じ込められるものの、扉が金属の骨組みだけなので閉塞感はありません。

 娘が友達と閉じ込められたときなど、蛇腹の間から手を振ったり、のぞいたりしては、助けを呼んでいました。近代的なエレベーターと違って、いきなり動くことがないので、危ないこともありません。蛇腹の扉越しに管理人さんと会話したり、なんとものどかなものでした。

 三番目の姉は21世紀に入った後も、スペイン語を学び直すため、ふたたび留学することになります。私も留学先であるスペインのサラマンカを訪れたのですが、やはり旧市街がありました。姉が宿舎にしていた修道院も、かつてはお城だったものです。

 葉山にある旧東伏見宮別邸も、カトリックの修道院になった後、しばらくは信者向けの宿泊施設として使われました。現在では国指定の有形文化財ですが、老朽化もあって存続の危機に立たされているとのこと。子供の頃から、葉山のシンボルのように慣れ親しんできた建物なので、これからも何とか残っていってほしいと切望しています。

旧東伏見宮別邸です。

ブラジルにいたころ、娘はアメリカンスクールに通っていたのですが、そこの西洋史の先生が、こんなことを語ったそうです。

 「ギリシャやローマで遺跡に足を踏み入れると、柱の間を吹き抜ける風の音に、古代の人々のささやきやざわめきが混じって聞こえるような、不思議な気持ちになる」

 私も平野邸Hayamaを訪れると、亡き家族の声や気配を感じることが多々あります。古い木造の家は風が吹くとギシギシと鳴るので、慣れ親しんだ音の中に、かつての家族団欒(だんらん)の面影を探しているのかも知れません。

 平野邸Hayamaは「みんなの実家」がコンセプト。両親や姉が元気だった頃以上に、暖かい雰囲気が満ちています。人はいなくなっても、団欒は残っているのです。

 ここを訪れてくださる皆さんにも、かつて葉山で暮らした昭和の家族の生活や雰囲気を感じていただければ幸いです。文化財にも登録されたことですし、今後もずっと残していきたいと、あらためて願っています。

 2024年が皆様にとって、良い一年となりますよう祈念いたします。

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いかがでしたか?

とても素敵な記事ですよね。

オーナーYakkoさんの大切な想いを大事に、我々プロジェクト運営者もしっかりと平野邸を守っていきたいと考えています。

そして、世代を問わず多くの方々にこの素晴らしい空間を体感して頂きたいと考えています。

是非「みんなの実家」平野邸Hayamaに遊びにいらしてください。

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