
神奈川県三浦郡葉山町にある平屋の古民家を活用し、みんなで宿づくりに取り組むプロジェクト「日本の暮らしをたのしむ、みんなの実家」は、この古民家で生まれ育ったオーナーYakkoさんの「家族の想いを引き継いで家を残していきたい」という想いから始まりました。「葉山暮らし回想記」は、そんなYakkoさんによる連載シリーズ。
今回は葉山町政100周年のイベントなどについて触れられています。
ぜひ最後までお読みください。
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たいへんご無沙汰しております、Yakkoです。おかげさまで、穏やかで元気な日々を送っています。
今年、2025年は戦後80周年。日本も世界も、残念ながらあまり明るいとは言えず、暗い話題も目立ちます。だからこそ、古き良き時代の雰囲気を残した〈みんなの実家〉、平野邸Hayamaにいらしていただき、気分をリフレッシュしてもらえればと思っています。
さて昨年3月6日、平野邸は「旧平野家住宅主屋」として国の登録有形文化財となりました(文部科学省告示第27号)。
文化庁のホームページによれば、文化財とは「わが国の長い歴史の中で生まれ、はぐくまれ、今日まで守り伝えられてきた貴重な国民的財産」とのこと。つまりは「日本という国の記憶」であり、「日本人みんなの思い出」です。わが平野邸にしても、国民的財産とまで呼べるかどうかはともかく、葉山という地域の歴史については、たしかに伝えているでしょう。
同時に今年は、葉山に町制が施行されて100周年にもあたります。これを記念して『葉山の記憶の記録 〜ホームムービーより〜』(髙木雛監督)という長編ドキュメンタリー映画が製作され、この1月、町の福祉文化会館で初上映されました。
ホームムービーとは、8ミリフィルムやホームビデオなど、個人的な思い出を記録するために撮影された映像の総称です。葉山町出身の髙木監督は、東京は京橋にある「国立映画アーカイブ」に勤めるかたわら、「シネマチェルキオ葉山」という団体の代表として、葉山をめぐるホームムービーを集め、上映会を開いてきました。そして今回、それらの映像をもとに『葉山の記憶の記録』を製作したのです。
映画は「Aプログラム」と「Bプログラム」の二部構成。各プログラムは約70分で、それぞれ6つのセクションから成り立っています。『記憶の記録』という題名通り、「葉山町全体の思い出」とも呼ぶべき内容になっているのですが、Aプログラムには父・平野武二が戦前に撮影した8ミリ映像も盛り込まれました。
さらに私自身、髙木監督にインタビューされる形で、作品に出演することになったのです! インタビューが行われたのは2024年秋、場所はもちろん平野邸Hayamaでした。
・『葉山の記憶の記録』メインビジュアル。髙木監督のインスタグラムより。

父の映像や、私のインタビューが登場するのは、Aプログラムの第4セクション「1936年の子どもたち」です。
1936年を和暦に直せば昭和11年。翌年7月には日中戦争が始まり、戦時色が強まってゆきます。戦前の日本が平和で幸せだった最後の時期なのですが、まずは約90年前の8ミリフィルムがどんなふうに残っていたかをお話ししましょう。
平野邸Hayamaの一階奥は現在、会議室となっているものの、かつてはお座敷でした。その一角、仏間だったところの天袋に、映写機やカメラともども、ずっとしまってあったのです。
・『葉山の記憶の記録』上映会パンフレットより。

・フィルムとともに保管されていた映写機。

8ミリは1980年代、つまり40年あまり前、ビデオの普及によって消えていったメディアです。映写機にしても動くかどうか。そもそも父が亡くなっていらい、誰も動かし方を知らないのです。私はもとより、家に長年住んでいた二番目の姉も、あらためてフィルムを見ることはありませんでした。
けれども2017年、姉が体調を崩して入院したとき、娘が「昔の8ミリを見せたら元気が出るのでは」と言い出しました。こうして専門の業者に頼み、映像を修復のうえ、デジタルデータに変換してもらうことになったのです。
姉は残念なことに2018年、修復された映像を観ることなく世を去ってしまいます。とはいえせっかくなので、データからDVDを作成してもらい、納骨や法事の席で上映したあと、記念品として親戚に配りました。
『葉山の記憶の記録』で使われているのも、このDVDの映像ですが、髙木監督によって編集されたうえ、音楽とナレーションがついています。
ホームムービーは、身内で見て「あ、映っちゃった」という素朴な興奮を楽しむためのもの。映画監督の大林宣彦さんは、プロの映像を「表現」、アマチュアの映像を「証言」と区分したそうですが、はたして多くの方々の鑑賞に耐えるのか、作品が完成するまでは不安でした。
けれども髙木監督は、「証言」の素朴さを損なうことなく、映像を「表現」へと昇華したのです。おかげで上映会には、幅広い年齢層の方々がいらして下さいました。葉山町にお住まいでない方も来られたとのことですが、楽しんでいただけたようです。
福祉文化会館の大きなスクリーンに、建ったばかりの平野邸をはじめ、戦前の葉山の光景が甦ったときは感動しました。まだ幼かった姉たちや従姉妹たちが、そろって登校したり、日舞の稽古をしたり、庭でゴム跳びをして遊んだりしています。
1936年、私はまだ生まれていません。とはいえ映像を眺めるうちに、姉たちから繰り返し聞かされた、戦前の豊かな生活の話を思い出しました。一緒に観に行った葉山小学校の同級生や親戚とも思い出話に花が咲き、懐かしくも幸せなひと時を過すことができました。
髙木監督によれば、戦前の葉山の映像はあまり残っておらず、父が残したフィルムは大変貴重なのだそうです。
当時、8ミリのカメラや映写機を持っていたのは、比較的裕福な層に限られていました。葉山は別荘地でしたから、そのような人も多かったのではないかと思いますが、東京に戻る際、フィルムも一緒に持っていったのではないでしょうか。
そして戦災や、敗戦後の混乱の中で、たくさんの「記憶の記録」が失われていったのだと思われます。ホームムービーどころか、大手の映画会社が製作した作品にも、今ではフィルムの残っていないものがあるそうです。
父が撮ったフィルムも、デジタルデータ化のあと行方不明となっています。樺太の光景なども映っていたため、2019年頃、「全国樺太連盟」(戦前の樺太で暮らしていた人々の相互扶助団体です)に寄贈したものの、2021年、連盟そのものが解散したのです。
高齢化により、活動継続が困難になったとのことですが、フィルムが見つからないものかと探しています。元のフィルムからあらためて4K修復すれば、いっそう鮮明なデジタル映像を手にすることができるのです。読者の中に、何かご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひご連絡下さい。
父の映像が『葉山の記憶の記録』の一部となるにあたっては、髙木監督はじめ、シネマチェルキオ葉山の皆さんにたいそうお世話になりました。同時に古いフィルムや映写機を、捨てずに保管してくれた姉にも感謝しなければなりません。
前にも書きましたが、戦時中、物資の乏しい時代に青春を過ごした姉は、とにかく何でも捨てずに取っておく人でした。使い道のあるなしは問題ではありません。段ボール箱、包装紙、リボン、お菓子の入っていた可愛い缶、使用済みの古い切手、姉妹の学生時代のセーラー服の襟、女学校時代のノートや教科書、甥たちや私の娘のおもちゃや漫画雑誌など、すべて保存されているのです。
女中部屋など、天井近くまで物が積み上げられる始末。しかも高齢になるにつれ、いよいよ片付けが難しくなってきます。姉の生前、私は「どうして、そんな古いものまで全部取っておくのよ!」と非難し、家の中を強制的に掃除していました。けれども、そんな姉の性格が吉と出たわけです。
8ミリのフィルムや機材のほかにも、姉は貴重なものを取っておいてくれました。樺太で暮らしていたころ、父は山火事防止のために「火防組合」という自警団を組織していたのですが、それにたいする感謝状です。一つは元泊(樺太の郡名です)の林務署長から、もう一つは樺太庁の長官から。
くしくも今年は、岩手の大船渡や、アメリカのロサンゼルスなど、国内外で大規模な山火事が発生していますが、消防技術の発達していない時代のこと、火災予防はますます切実だったに違いありません。平野材木店を営み、林業に携わっていた父は、その恐ろしさを実感していたのだろうと思います。これもあわせてご紹介しましょう。
・元泊林務署長からの感謝状

【山火警防上、尽力せられたる功労、尠(すくな)からず。よって記念品を贈呈し、ここに感謝の意を表す】
・樺太庁長官からの感謝状

【本島における林野火災は営林上最大の脅威にして、官民協力一致、これが警防にあたらざるべからず(=あたらねばならない)。由来(=もともと)、林野火防組合はもっぱら山火の警防に任ずる自警団体にして、本島拓殖資源の保護は、その活動に俟つ(=頼る)もの、はなはだ多し。君は元泊林野火防組合に金百円を寄付し、もってその活動を扶翼(=支援)せらる、まことに奇篤なりとす(=じつに素晴らしいと評価する)。よってここに感謝状を贈り、謝意を表す】
後半に続く