平野邸 Hayama

平野邸オーナーYakkoの葉山暮らし回想記 -Vol.9-(後編)

平野邸オーナーYakkoの葉山暮らし回想記 -Vol.9-(後編)

神奈川県三浦郡葉山町にある平屋の古民家を活用し、みんなで宿づくりに取り組むプロジェクト「日本の暮らしをたのしむ、みんなの実家」は、この古民家で生まれ育ったオーナーYakkoさんの「家族の想いを引き継いで家を残していきたい」という想いから始まりました。「葉山暮らし回想記」は、そんなYakkoさんによる連載シリーズ。

先日公開した前編に続き、今回は後編をお届けします。

ぜひ最後までお読みください。

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『葉山の記憶の記録』で使われた父の映像は、当然ながら葉山で撮影されたものばかりです。けれども元のフィルムには、他の場所で撮影されたと思われる映像も残っていました。

 まずは樺太です。消防団の出初式や、雪の中、白樺の林の中を歩く父や伯父たちの姿。暖かそうな洋館の中から手を振る母たちの姿もありました。狐の養殖(毛皮を取るために飼って育てるのです)の様子や、狐を抱く親戚の姿も写っています。さらには戦前の横浜の賑わい、箱根の強羅公園の風景なども。家族で出かけた際に撮ったのでしょう。

 当時の生活はどんな感じだったのか、髙木雛監督からインタビューを受けたときには、もっと姉の話をきちんと聞いておけば良かったと後悔しました。けれどもここで、平野邸Hayamaのブログを書いてきたことが役に立ちます。私の話を補うべく、過去の記事を監督にも読んでいただきました。

 映画を製作した「シネマチェルキオ葉山」の皆さんは、今回の上映会を運営するにあたり、平野邸に泊まって下さっています。この家も「葉山の思い出」ですから、まさにピッタリなのですが、父のフィルムがもたらしてくれたご縁だと感謝しています。

 葉山の思い出をめぐっては、もう一つ嬉しいことがありました。三番目の姉の所属しているイエズス孝女会修道院は、旧東伏見宮別邸を長らく所有しているのですが、この建物がリノベーションされ、保存・活用されることとなったのです。

 リノベーションを担当するのは、株式会社エンジョイワークスと、NPO法人葉山環境文化デザイン集団。私の実家を平野邸Hayamaとして蘇らせてくれた方々です。平野邸と同じく、コミュニティースペースや宿泊施設として残してゆくとのこと。

 旧東伏見宮別邸は皇族の別荘だったこともあり、戦前から葉山のシンボルのようなお屋敷でした。数ある立派な別荘や建物の中でも、特別な風格が漂っているのが、子供心にも感じ取れたものです。

 別邸の周囲は森に囲まれ、ちょっと近寄りがたい雰囲気がありました。もっとも地域の男の子たちは平気で忍び込んでは、庭でザリガニを採ったりしていたようです。

 敗戦直後の1947年、東伏見宮家は皇籍を離脱することになりました。こうして別邸は、カトリックのイエズス会に買い取られます。当時の別邸は今よりずっと敷地が広く、洋館の裏に和館があったのですが、そこに司教様が住んでいました。

 ところが1949年、中国が共産党によって統一されます。それまで現地では、イエズス会のシスターたちの組織「イエズス孝女会」が布教活動をしていたものの、宗教を否定する共産政権の成立によって出国を余儀なくされました。日本で活動を続けることになった孝女会は1950年代はじめ、別邸を譲り受けて修道院としたのです。

 私の三番目の姉は、修道院が開設された当初から入りびたっていました。戦時中、横浜にあるカトリックの女学校に通っていた姉は、勤労動員の際、大空襲にあって九死に一生を得ています。その後は音大を卒業、母校で音楽の教師をしていたのですが、空襲体験の影響か、シスターになりたいと思うようになっていました。

 そんなとき、家から歩いてすぐのところに修道院ができたのですから、文字通り渡りに船。気がつくと、姉は孝女会の修練生になっていました。正式にシスターとなる前の見習いをこう呼ぶのです。

・修練生時代の姉。
・同じく修練生時代。修道院として使われた別邸の一室で勉強中。

娘たちに普通の結婚をしてほしかった両親は、姉の進路に大反対でした。当時の平野邸には、二階にピアノが置かれていたのですが、母などはそのピアノに突っ伏し、二週間泣き続けたほど。

 けれども母は、四人の娘をすべてミッションスクールに入れたのです。一人ぐらい、シスターをめざすようになるかも知れないとは思わなかったのでしょうか? 今なお、この点がよく分かりません。

 父は父で、姉を旅行に連れて行ったりしました。修道院は清貧がモットーですので、シスターになれば、自由に旅行を楽しむような贅沢はできません。要はあの手この手で、どうにか思いとどまらせようとしたものの、姉の決意が揺らぐことはありませんでした。

 もっとも修道院に入ったおかげで、姉はローマに留学させてもらうことになります。1960年代はじめ、海外旅行がようやく自由化されるかどうかというころの話。普通の日本人は容易には国外に出られません。

 そういう時代に留学です。おまけにローマまでの船旅では、修道服を着ていたおかげか、船員や他の乗客からも尊敬され、大切にしてもらったとか。旅行ができなくなるどころか、信仰の道を志さなければありえない御利益だったのです。留学中、姉は生涯を信仰に捧げる誓い(「終身誓願」と言います)を立て、正式なシスターとなりました。

 神の御心は計り知れず、両親もそう納得したのでしょう。姉が帰国したあとは、シスターたちを家に招いて菊見の会を開くなど、積極的に応援するようになりました。海外のシスターや、そのご両親が日本にやってきたときは、皇居や浅草、鎌倉といった観光地へ案内しています。

 母にいたっては、キリスト教の勉強会に通いはじめ、ついには信者になったほど。今は二人とも鎌倉にある寿福寺に眠っておりますが、葬儀にあたっては、修道院の聖堂でもミサをあげていただきました。

・菊見の会で、平野邸を訪れたシスターたち。
・修道院の前で。シスター(姉)と一緒に映っているのは母です。

私の娘が子供だったころ、1970年代ぐらいまで、イエズス孝女会は別邸の洋館を修道院として使っていました。その後は敷地内の別の場所に新しい建物ができるのですが、姉がシスターになっているわけですから、家族で頻繁に遊びに行ったものです。

 そんな思い出の詰まった洋館が、老朽化もあって解体の危機にさらされていることは、何年も前から聞いていました。どうにかできないものかと心配していたものの、実家の存続だけで手一杯の私が無責任に発言できることではありません。

 あれだけ立派な建物を保全するのは大変なことなのです。シスターたちの負担を考えれば、残してほしいと頼むわけにもゆきません。高齢になった姉を修道院に見舞うたび、くたびれの目立つ白亜の洋館を眺めては、「一体この先、どうなってしまうのだろうか?」とため息をついておりました。

 とはいえ、神の御心は計り知れず。旧東伏見宮別邸保全プロジェクトがスタートしたと知ったときには、本当に嬉しくなりました。私の実家が平野邸Hayamaに生まれ変わり、さまざまな人々に利用していただいているように、別邸も新たな形で甦り、これからも葉山のシンボルであり続けてほしいものです。

 「あらゆることは、いつか思い出にすぎなくなる」というのは、世の変わらぬ真実です。けれども思い出に、新しい命が吹き込まれることもある。歴史とはそうやって受け継がれてゆくものなのでしょう。映像であれ建物であれ、だからこそ残してゆく価値があるのだと思います。

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いかがでしたしょうか?

平野邸Hayamaオーナーyakkoさんのお姉さまが深く関わっていらっしゃった旧東伏見宮葉山別邸が新たなプロジェクトとして立ち上がり、私たちグッドネイバーズで運営するということは、ご縁を感じずにはいられません。

平野邸と同じく、葉山町の貴重な財産として後世に残していけるよう努めてまいります。

是非素晴らしい建物を利用していただけるとなお嬉しく思います。

旧東伏見宮葉山別邸 公式サイト

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