オーナーのYakkoです。
80年前、この平野邸一階の奥の間で生まれました。
ここで暮らしたのは25年ほどですが、その後も頻繁に訪れ、家族や親戚、友人たちと楽しく過ごしてきた大切な実家です。
思い出深いこの家が、おいで下さる皆様にとっても、懐かしい心の故郷の様な場所になっていくことを願っています。
この家のことを皆様にも知って頂きたいのでブログに初挑戦します。
思いつくままに昔の暮しや葉山のことなど書いていきますので、よろしくお願い致します。
私の両親は明治生まれです。
父は東京下町の出身です。親友と樺太(現サハリン)へ渡り、材木の仕事をおこしました。
母は千葉の港町の出身で、東京の専門学校で学んだあと、故郷で教師の仕事をしていましたが、父と樺太に渡った親友の妹にあたります。
その縁で、父の元へ嫁ぐことになりました。
2人は樺太で新婚生活を送り、3人の娘(私の姉たちです)に恵まれました。
材木商の仕事で成功した父は娘達の健康を考え、冬は温暖で夏は涼しい葉山に移り住む事を決めます。
この家が建ったのは昭和11年(1936年)。最初は中二階の部分がなく、完全な平家でした。
家が建つまでの間は仙元山のふもとに仮住まいをしていたそうです。
樺太は雪深いところだったので,家の庭にはどの季節にも花が咲くよう、四季の様々な花を楽しめる木を植えました。
今では枯れてしまっている木も多いのですが、昔は常時、植木屋さんが入って良く手入れされていたものです。
私はサルスベリの赤い花がとくに好きでしたが、去年の台風で倒れてしまい残念に思っています。
子供の頃はサルスベリの木によく登り、そこから屋根に上がっては、周囲の景色を眺めて楽しんでいました。
今と違って家の前は畑だけ、上の真名瀬に続く道が見え、前の山が良い借景になっていました。
大変だったのは台風対策で、雨戸を全て釘で打ち付けたほどです。
庭には芝生があったそうですが、私が物心ついたころには戦時中の食料難のせいで畑になっており、昔のおもかげはありませんでした。
私の記憶は、父が軍属の仕事でボルネオに行く日から始まっています。
白い麻の背広を着てパナマ帽をかぶった父が玄関の外に立ち、こちらを振り向いた時、明るい太陽が後光の様に照らしていたことを、今でも鮮明に思い出せます。
両親や姉達から聞いた戦前の古き良き時代の暮し、戦中の苦労話、そして私自身が経験した戦後のエピソード等を不定期に綴らせて頂きますので、しばしおつきあいください。
この家の物語を知ることで、皆様が愛着を持って下さいますよう、記憶をたどっていこうと思います。
この家の庭に再び四季の花々が咲き乱れ、にぎやかな声が響く日が訪れるのを楽しみにしています。
*プロジェクトメンバーからのコメント
ハロリノマーケチームの保坂です。平野邸を初めて訪れた時に、心にあたたかな気持ちが広がりました。Yakkoさんが書いてくださった回想記を読んでみて、その理由が分かったような気がします。
ご家族の愛情が詰まった大切おうち。ここでまた、新たな思い出が増えていくことを想像し、私自身プロジェクトへの想いが強くなりました。不定期連載のこちらのシリーズ、次が楽しみです。