令和初のお正月おめでとうございます。
80年前の昭和時代から葉山の実家で暮らしを楽しんでいたYakkoです。
葉山の家の歴史を皆様に知って頂きたく、ブログに初挑戦中です。
素敵な本のイベントをきっかけに、家の茶の間に本棚を作っていただくことになったとうかがいました。
出来上がりが楽しみです。
私はとても本を読むのが好きでした。今の若い人はあまり本を読まないという話ですが、時代がまったく違います。
インターネットやスマートフォンはおろか、テレビ(液晶ではありませんよ。ブラウン管で、しかも白黒)すら存在しなかった時代です。楽しみと言えば本。
おまけに当時、本は決して手に入りやすいものではありませんでした。
戦争中など、紙が不足して「紙飢饉(ききん)」などと呼ばれたほど。1冊の本が、それは大切な宝物だったのです。
姉妹や友達と貸し借りして、ボロボロになるまで読みました。本のたくさん置いてある友達の家に遊びに行き、読ませてもらうのも大きな楽しみでした。
少女時代の私の愛読書は『小公子』『モンテ・クリスト伯』『三銃士』です。畳の上で本の世界に浸りながら、外国への憧れを抱くようになりました。
もっとも愛読書は人それぞれです。2017年まで葉山の家に一人で住んでいた二番目の姉は、宝塚歌劇の本と賛美歌集が大好きでした。
姉は生涯を通じて「ヅカファン」でしたから、前者は当然でしょう。活字の本ばかりでなく、スターの写真集もそろえていました。
では、なぜ賛美歌集なのでしょうか。
姉は葉山小学校のあと、横浜にある私立のキリスト教系女学校に入りました。賛美歌集はそこでもらったものです。
晩年まで大切に持っていましたが、キリスト教の熱心な信者だったわけではありません。姉は仏壇や神棚、森戸神社にも手を合わせていました。しかし讚美歌には特別な思いがあるようでした。
姉の女学校時代は、太平洋戦争とほとんど重なっています。戦局が悪化するにつれ、女学生も「勤労奉仕」と言って、軍需工場での労働に駆り出されました。男の人が大量に戦地へ行ってしまったせいで、人手が足りなくなっていたのです。
当時はさまざまな場所が軍需工場と化しており、姉達は色々なところに出かけて働いていました。中には隣が火薬置き場という工場まであったのです。爆発でも起きたら助かりません。当時は聞かされていなかったものの、戦後に知ってぞっとしたそうです。
勤労奉仕の合間に、友人たちと讚美歌を歌うひとときは、忘れられない思い出だったのでしょう。
有名な漫画家の手塚治虫さんは、戦時下の生活を題材にした「紙の砦」という短編を描いています。ここでは宝塚音楽学校(宝塚歌劇団の養成所です)の生徒たちが、勤労奉仕先の工場で昼休みにコーラスを楽しむ場面がありました。姉の賛美歌も、同じようなものだったのかも知れません。
苦労を分かち合ったという思いがあるのか、姉達の学年では、同窓会のたびに讚美歌を歌うそうです。同級生の結束も非常に固く、母校愛も強いのでした。姉は70歳代半ばまで会社勤めを続けましたが、その後は80歳代半ばまで、同窓会活動に熱心に取り組んでいました。
戦争中、キリスト教はとかく白い目で見られました。同盟国のドイツやイタリアもキリスト教国なのですが、そういう話ではないのですね。
敵の手先などと思われないよう、姉の女学校はいち早く校名を変え、勤労奉仕にも熱心に生徒を送り出しました。制服もモンペに切り替えたくらいです。
二番目の姉はこれで、ずいぶん残念な思いをしています。じつは一番上の姉もこの学校を出ているのですが、そのころの制服はとても素敵だったのです。ところが自分が入ってみたら、戦争のせいで制服が変わってしまった次第なのです。
一番上の姉と二番目の姉は、四歳しか離れていません。けれども一年か二年の違いで、全然違った経験をすることになるのが戦争の時代の特徴です。
英語が好きだった一番上の姉は、自由な女学校生活を謳歌しました。学内で英語劇を披露したり、卒業後も英語の専門学校に進んだり(女学校から大学には進めなかったのです)、今の人たちと大差ない青春時代を送っています。
ところが二番目の姉が入った直後、まず制服がモンペに変わります。やがて授業もなくなり、勤労奉仕が待っていました。三番目の姉は、上の二人とは別のミッションスクールに入りましたが、やはり同じような経験をしています。
戦争末期、母は姉たちに「学校を休んでもいい」と言っていました。どうせ授業はないからです。
とはいえ、学校に行けば友達に会えます。勤労奉仕でも、たとえば製菓工場だとキャラメルがもらえたりします。あるいは工場の厨房からこっそりおにぎりをもらったり、お人形の服を仕事の合間に縫ったりなど、それなりに楽しいことがあるんですね。そんなわけで、姉たちは家に引きこもらず、学校や工場に通いつづけました。
そんな中、二番目の姉には忘れられない思い出があります。
女学校の先生が、学校のそばにある港の見える公園へ生徒たちを連れてゆき、「これから皆で賛美歌を歌える機会はなくなるでしょう。ですから今日は皆で思いっきり歌いましょう。」と言って皆で歌ったのです。
わが家にも戦争の影響は及んできました。庭には防空壕が掘られましたし、母は防空演習でバケツリレー等の訓練に参加することになります。空襲で火災が発生したら、水の入ったバケツをリレー式に渡して消火しようというのですが、あちこちで同時に火災が発生することまでは想定されていなかったようです。
もっとも母は、そんな訓練の際もやる気がありませんでした。ついでに家では姉たちがピアノで外国の曲を弾いています。何やら別世界に生きている家族という感じで、周囲から浮いていたのではないでしょうか。
とはいえ食料の買い出しとなると、母も熱心にやっていました。私たちのためと思ったのでしょう。
遠くまで行かねばならないので、家を空けることが多くなりました。一日中帰って来ないこともあります。
家には住み込みで家事を手伝う「ねえやさん」が何人かいたのですが、それもいなくなりました。一番昔からいて、家族のようになじんでいたねえやさんは、結婚して満州に渡りましたし、残りのねえやさんは里に帰ることになったのです。
姉たちが学校に行くと、私は一人で留守番をしなければなりませんでした。昔の家は、今と違って照明があまりありません。屋内でも闇が多く、雨の降る日など天井のシミが恐ろしいお化けに見えました。
私は震えながら、茶の間で母の帰りを待っていました。廊下の奥のトイレにも怖くて行けません。あのときの心細い気持は、今でも鮮明に覚えています。
日本の敗色が濃厚になるにつれて、いよいよ空襲が本格化します。
1945年5月29日、三番目の姉は勤労奉仕で横浜は伊勢佐木町のデパートに行きました。女学校の二年生で、14歳。ところがその日、横浜は大空襲を受けたのです。
姉はその日、遅刻をして急いでいました。桜木町駅で電車を降り、改札を出たところで空襲警報のサイレンが鳴り響きます。同じく遅刻した友だちと、職場であるデパートに向かって大急ぎで走りましたが、危ないから防空壕に入りなさいと誘った人が何人もいたとか。
親切で言ってくれているわけですが、姉たちはそれを断ってデパートにたどり着きました。先生やクラスメートは地階、つまり地下に避難しています。
姉たちが地階に入ったとたん、米軍の無差別爆撃が始まったそうです。地階の入り口は鉄の防火扉で厳重に閉鎖されました。暗闇の中、爆撃音と振動にさらされ生徒達は悲鳴をあげました。
その時、引率の先生(聖職者です)の一人が、賛美歌を皆で歌いましょうとおっしゃったのです。姉は恐怖に震えながら歌い始めました。すると何だか心がおちつき別世界にいるような気持になったとか。
防火扉も何とか持ちこたえましたが、生徒たちが大空襲を無事に生き延びたのは賛美歌のおかげでもあったのです。
空襲が終わり、警報が解除されても、しばらくは防火扉を開けることができません。ものすごく熱くなっていたのです。
扉が冷えるのを待って外に出てみると、伊勢佐木町から桜木町一帯はもちろん、横浜のすべてが焼き尽くされ、ビルも建物も破壊されていました。姉達を助けようとしてくれた人たちが入った防空壕も、すべて瓦礫となっています。横浜大空襲の中心にいながら、姉たちがみな助かったのは、奇跡的としか言いようがありません。
その頃、葉山の家では、母が心配で居ても立ってもいられなくなっていました。子供を横浜の学校へ通わせている近所の親たちが集まってきます。真名瀬に行く道に出ると、見たこともない黒い雲が、横浜の方向の空に大きく高く広がっていました。
私はまだ6歳だったので、近所の人がいっぱいいて浮き浮きしていましたが、みんなそれどころではありません。「もうダメね・・・」と母は暗くつぶやいていました。
その後、みんなを代表して父親の一人が逗子駅まで行くことになりました。現在のように、何かあってもメールやLINEで安否確認できるわけではありません。「もし助かっていれば、時間がかかっても必ず逗子駅に帰ってくるはずだから、駅にいれば安否が分かる」ということになったのです。
あとは待つしかないのですが、母は心配でじっとしていられません。逗子駅に向かうトンネルの入り口にずっと立っていました。それも家がある側ではなく、反対側、駅に近いほうです。
姉は夕方になって、駅で待っていた近所の人に連れられ、他の子供たちと一緒に帰ってきました。トンネルの入り口で、母は姉を抱きしめたそうです。
空襲を生き抜いた経験は、戦後の姉の進路に大きな影響を与えました。音楽学校を卒業した後、聖職者と教師になる道を選んだのです。同級生の中にも、聖職者になった生徒が大勢いました。
空襲のさなか、先生と地下で歌った賛美歌は、姉たちの心に爆撃の音よりも大きく響いたのでしょう。
クリスマスに賛美歌を耳にすると、私はこのエピソードを思い出します。
戦時中は到底、クリスマスを祝うどころではありませんでしたが、戦争が終わると、子供たちが布団の枕元に置いた靴下の中に、母がキャラメルを一箱入れておいてくれました。ささやかなキャラメル一箱でも、その頃の私にとっては何よりのプレゼントだったのです。
皆様も平野邸で楽しいひとときをお過ごし下さい。
過去ブログのご紹介
「空襲のさなか、先生と地下で歌った賛美歌は、姉たちの心に爆撃の音よりも大きく響いたのでしょう。」の一文がとても感動的でした。最後まで読んでいただきありがとうございました。
ブログを読んで「自分を待っていてくれる人や場所」って改めていいなと思ったそこのあなた!!
もっと平野邸について知れる過去ブログも、とても素敵ですので是非ご覧ください。
Yakkoさんのご両親の略歴とご家族が葉山に越してくるまでのお話です。
戦前当時の食にまつわるお話です。当時の文化も勉強になります。
平野邸のお庭のお話から、戦争開戦による葉山の人々の生活の変化のお話しです。
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