平野邸 Hayama

オーナーYakkoの葉山暮らし回想記-Vol.5-

オーナーYakkoの葉山暮らし回想記-Vol.5-

Yakkoです。令和初の節分で、鬼を追い出したく大豆の煮物を作りました。
葉山の家の歴史を皆様に知って頂きたく、ブログを書き続けています。

戦前、戦中はどうだったか覚えていませんが、昭和20年代から30年代(1945年〜1965年)の葉山では、節分になるとどの家からも、お父さんたちが大声で「鬼は外!福は内!」と叫ぶ声が響きわたりました。
日本が貧しかった時代ではありますが、私にとっては明るい気配を感じられる日々でした。現在はどこからもそんな声は聞こえてこないので、豆まきの代わりに大豆を煮た次第です。
目下の鬼は新型肺炎。皆様、健康に気をつけましょう。

肺の疾患は、昔も流行っていました。戦前、我が家が樺太から葉山に引っ越したのも、上の二人の姉の身体が弱かったせいです。冬は温暖で夏が涼しい保養地ということで、娘たちの健康のためにと父が決めたのでした。
横浜大空襲を生き延びた三番目の姉も肋膜炎になっていたようですが、知らない間に治っていました。戦後に検査を受けるまで、誰も気づかなかったのです。そのかわり、もんぺの制服を残念がっていた二番目の姉が1948年ごろに肺浸潤になってしまいました。専門学校を卒業したあとも、何年も働かず家で療養していたものです。家を片付けていたら当時の吸入器が出てきました。

結核をはじめとする肺疾患は致死率が高く、抗生物質のなかった時代には大変に恐れられていました。湘南には結核の療養施設もあったくらいです。
逗子駅近くの山の中腹に友だちが住んでおり、招かれて遊びに行ったことがあります。素敵な洋館でしたが、大きな庭に和風の離れがありました。
離れのまわりには低い竹垣があり、コスモスの花がたくさん咲き乱れています。窓から中を見ると、奥のベッドにコスモスの花のようなはかなげな美しいお姉さまが横たわっていました。
そのお姉さまは結核で、家族から隔離されて療養していたのです。竹垣ごしにお話したのを良く覚えています。

戦争という暗い時代が終わった日の、嘘のように晴れ上がった青空を私は良く覚えています。
1945年8月15日、水曜の正午に重大な発表があるということで、ご近所の大きなお屋敷に行って、隣組の人たちとラジオの前に集まりました。ポツダム宣言の受諾、つまり日本の敗戦を知らせる玉音放送でした。母も近所の人達も姉たちも泣いていました。
私は6歳だったので、何か大変なことが起こったらしいというくらいしかわかりません。母がすぐに、今までは空襲があって外では遊べなかったけれど、
これからは外で好きなだけ遊んでいいのよと意外に明るい顔で言ったので、ワーイと大きな歓声をあげながら、近所の子供たちと庭中を走り回りました。子供ながらに大声で叫びたくなるような開放感と、わき上がるような幸福感を初めて感じた晴天の一日でした。

戦争が終わったからと言って、すぐに父が帰ってきたわけではありません。戦中からの長い間、母はいったいどうやって、子供たちを食べさせたり、教育を受けさせたりしていたのでしょうか。
今となっては姉たちに聞くこともできず、ハッキリとは分かりません。
おそらく物々交換をはじめ、戦前の蓄えを切り崩したり、知人、親戚に助けられたりしていたのだと思います。
むろん買い出しもしましたし、出入りの商店の人たちなどから情報を得て、買い溜めもしていました。ひそかに手に入れた調味料や保存食品、たどんや炭などの燃料を、母は奥の部屋の畳の下に隠しておいて、時々出して使っていました。
でも天ぷらなどを揚げたりすると、真名瀬に向かう上の道のあたりまで油のにおいが漂います。ご近所に買い溜めがバレないかと、母はヒヤヒヤしていたようでした。
戦争は国全体の非常時なので、買いだめは禁止という建前だったのです。

病気になると、母は特別に畳の下から砂糖を出してきて葛湯(くずゆ)を作ってくれます。それが私の大きな楽しみでした。
戦中から戦後しばらくにかけては、いつも飢餓状態にあったうえ、甘い物がほとんどありません。南洋にいる父が日本へ帰る知人に頼んで、届けてもらった外国製のキャンデイの味は、今でも鮮明に覚えています。
暗い台所で、母が高い棚の上から美しい丸い缶を取り出し、「皆には内緒よ!」といいながら、キャンデイを一粒くれたことも。姉達が学校に行っている間、淋しく退屈な時間を過ごしていた中でのうれしい甘い記憶です。
戦後何年もたって、イギリスのマッキントッシュのキャンデイの缶を見た時には、戦争中に母がくれた秘密のキャンデイの思い出が甦りました。

戦局が悪化するにつれて、父からの贈り物も届かなくなります。しまいには父の消息そのものが途絶えてしまいました。それでも母は、どんな時にも幼い私に涙を見せることはありませんでした。
もっとも前に書いたとおり、私たちが寝静まった後、母が2番目の姉と一緒に「お父さんはもう帰ってこないのね」と泣いていたことはあったようです。これは3番目の姉から、ずっと後になって聞かされました。3番目の姉もまだ
13歳ぐらいだったので、母の話相手にはならなかったのでしょう。
私の思い出は、戦争中のきびしい時代から始まっています。きびしい時代と言いましても、姉たちや母もいて、食事も充分ではなくても、まあまあ食べていけたのですから、あの時代にしては恵まれていたほうかもしれません。

私はそのころ、虫に刺されたり、転んだりすると、傷がなかなか治りませんでした。小さい傷が膿んできて、長い間ふさがらないのです。「栄養が足りないからだ」と、母はつらそうによく言っていました。
そんな栄養失調の私が葉山小学校に入学したのは、1945年の4月でした。都会ではみんな、アメリカの激しい空襲になすすべもなく逃げ惑っていた時代です。防空頭巾(中に綿が入っていて前でひもを結ぶ頭巾、今の防災頭巾の原型です)をかぶり、着物をほどいて作ったもんぺをはいていました。ランドセルは革製ですが、これは姉のお古です。

初めての登校日、私は知らない子供達の中で緊張していたのですが、6色のクレヨンを一箱もらいました。本当に夢のようにうれしいことでした。それからしばらくの間、クレヨンは私の宝物でした。
赤や緑や黄色のきれいな色がすぐに減ってしまって、とても悲しかったことを覚えています。今のように、いつでも何でも、ほしいものが手に入る時代ではありません。色が少なくとも、クレヨンをもらった喜びは、今でも忘れられないほどです。
私は物のない時代に育ちましたが,当時はそれが普通でしたので、べつに不幸とも思いませんでした。入学式も全く記憶にありません。3月10日に東京大空襲があったばかり、式などなかったのか,あっても簡素なものだったのでしょう。

綴方(作文)を書くためのノートは、母の手製でした。手描きのマス目を鉛筆で書いた紙をまとめて、針と糸で和綴じにします。表紙は絵本のページ(紙が厚かったのです)を切り取ったもので、そこに「つづりかた」と書いてくれました。
葉山の家を整理している時、本棚の片隅からそのノートが出て来ました。手作りのささやかなものでも、新しい学び舎に入って行く娘へのお祝いの品だったのだと、今になって初めて気づいたものです。

「ピカピカの一年生」などという言葉とは程遠いものでしたが、それでも期待は一杯ありました。そんな一年生が、最初の夏休みを過ごしている最中に、日本はアメリカに負けたのでした。

戦争が終わったからといって、物事がすぐに良くなったわけではありません。あの雲ひとつない青空の日から数年間、食糧難や物不足は戦時中とあまり変わらなかったように思います。
父の消息もなかなか分かりません。それでも、家の中の雰囲気は明るくなりました。
夏休みが終わり、二学期が始まると、教室も急に華やかになったような気がしました。東京の屋敷が空襲で焼けたからでしょうか、別荘に移ってきた都会の子供たちが葉山小学校に入ってきたのです。
別荘組の子供たちは都会的で、服装も素敵でした。戦前の女優さんの娘さんや、歴史の教科書に出てくるような偉大な政治家のお孫さんもいました。
「あの人の家は、お別荘よ!」地元の子供たちはそう言い合いましたが、そこにも憧れの気持がありました。疎開先で地元の子供からいじめられたという話を、大人になってからよく聞かされましたが、私の知るかぎり葉山ではそういうことはまるで起こらなかったのです。

葉山には、外から来る人を迎え入れる土壌が戦前からあったのだと思います。また別荘文化というものがあり、地元と外来の人がうまく調和のとれた世界を築いてきたのでしょう。
お別荘組を迎えて、クラスの雰囲気は明るく、楽しくなりました。昼休みには地元組もお別荘組も一緒になって、小学校の裏の山に走ってゆき、目一杯遊んでいました。もっとも2年生になると、お別荘組は都会の学校へ戻ったり、鎌倉や横須賀のミッションスクールに転校してしまいました。
私も3年生の9月に、3番目の姉と同じ横浜の学校に転校させられます。遊ぶことだけに熱心だったせいで、さすがに母も心配になったのでしょう。なにせ夏休みの絵日記まで先に全部書いてしまい、後は遊びほうけているような子供だったのです。

横浜の学校の編入試験を受けるため、二週間ばかり猛勉強させられました。いつもは優しい母も、このときは鬼のよう。
じつは3番目の姉が、「来年になると疎開先からたくさん生徒が編入してくる」と聞きつけてきたのです。そうなると入るのが大変になるので、何としてもその前にと、急遽、編入試験を受けることになったのでした。
姉と一緒に遠くの学校に通うのは、ちょっと誇らしかったのですが、満員電車で通うことは体力的に負担でした。電車通学のエピソードはまたいずれ。

話は少し前後しますが、戦争が終わって1年9ヶ月後、父が南方から帰ってきました。私が小学校2年生の春のことです。
軍に命じられた材木の仕事をボルネオでしていた父は、敗戦で収容所に送られました。敗色濃厚となったあと、帰国する機会は何度かあったのですが、部下に船の乗船券を譲って最後まで現地に残ったのです。部下のためを思ってしたことですが、船が魚雷攻撃にあって沈んでしまい、日本に戻ることはできませんでした。
収容所に送られたとはいっても、父は軍人でもなければ現地の人々を虐待していたわけでもありません。抑留された人の中では、早く引き揚げ船に乗ることができたようです。

父が帰ってくるという知らせがどんなふうに来たのか、私は小さかったので知りません。ただ、父が葉山の家に帰って来た日のことはよく覚えています。
母と二人で家にいた雨模様の日のこと。玄関の戸が開いたので、母に続いて玄関に出ると、薄汚れた格好の見知らぬおじさんが、「やあ!」と言いながら、なれなれしく家に上がってきたのです。変な人が家に入って怖いことになるのではないかと、ドキドキしてお茶の間に避難しました。
「だあれ?」と母に小さな声で聞くと、「お父さんよ」と答えが返ってきます。南方から送られてくる写真の中の父は、白い麻の服を着て南国の樹々の下にたたずんでいたので、かなり印象が違います。ちょっとがっかりしました。

父は茶の間の縁側で、庭を眺めて立っていました。その時、母はお茶の間の入口に、きっちりと正座しました。
入口は廊下につながっていますので、縁側とはちょうど反対。父の立っている位置からだと、ちょうど定規で茶の間に対角線を引いた感じになります。
母は「本当に長い間ご苦労様でした」と三つ指をつき、頭を深々とさげ言いました。あんなに折り目正しく、心のこもった挨拶をしたのを、後にも先にも見たことはありません。
茶の間の入口にきっちり座ったからこそ、できた挨拶ではないか、そう私は思います。同じ茶の間でも、他の場所にいたら、きっと言えなかったでしょう。母は自分が座るべき場所を正確に決めていたのです。
大変短いけれど、万感の思いをこめた、尊敬と愛情にあふれた挨拶でした。父が照れたようにひとこと「ああ」と答えたのを覚えています。

末っ子の私を見て、父は「誰かは死んでいると思った」と言いました。家族の無事に安堵したのでしょう。舞鶴港から関西、横浜と、家に戻ってくるまでの間に、戦禍のすさまじさを目の当たりにし、半ば諦めていたのでしょう。

父は京都で友人達から歓迎の接待を受け、上の娘たちに西陣織のバッグを買って来てくれました。戦後1年9ヶ月位で京都では料亭がすでに営業していたのかと、後になって不思議に思ったものです。
バッグを持つにはまだ小さかった私は父に、何かほしい物はあるかと聞かれました。「白いご飯が食べたい」と答えたのですが、父はショックを受けたそうです。

我が家の食糧事情は、父の帰国で一気に良くなりました。
父はある商社の材木部門を取りしきる役職につきます。地方への出張も多く、各地のおいしい食べ物が食卓にのぼるようになりました。一番上の姉は専門学校を卒業し、得意の英語を活かして進駐軍で働きました。

それからしばらくして、昔、我が家で働いてくれていた「ねえやさん」が満州から引き揚げてきます。私たちは親しみをこめて「ねっちゃん」と呼んでいました。

ねっちゃんは戦争中に結婚して満州に行ったのですが、敗戦後は大変な苦労をしました。襲われないよう男装し、頭まで剃って逃げてきたのです。丸坊主のまま故郷の山形に帰りたくないと言うので、髪の毛がはえそろうまで葉山の家にいることになりました。
ちょうど私が、例の編入試験を受けるための特訓を受けていたころです。母に勉強のことで叱られると、ねっちゃんは優しい顔で慰めてくれました。ただ私が泣いていると「明日学校に迎えにいってあげるね。山は雪だんべえって言って迎えに行くね」と言うので、泣くのも忘れて「恥ずかしいから来ないで。お願いだから来ないで」と頼んだものです。
父とねっちゃんが戻ってきたおかげで、葉山の家にはにぎやかな団らんが復活しました。皆様も平野邸でにぎやかにお過ごし下さい。

スタッフからひとこと

戦争中から戦後数年、食糧難と物資不足でとても大変だった様子ですが、その中でも心豊かに生活されていたことが伝わってきますね。生活の中に散らばる小さな楽しみ・前向きになれる物事を見つけることは今も昔も大事であることに変わりはありません。平野邸はそんな幸せの種を見つけるのにとっておきの場所。みなさんと共に今後も大切に育てていきたいです。

過去ブログの紹介

オーナーYakkoさんにはこれまでも平野邸での暮らしやその時代の様子などを執筆いただいています。
とっても素敵な過去ブログ、ぜひご一読ください!

・オーナーYakkoの葉山暮らし回想記-Vol.1-
Yakkoさんのご両親の略歴とご家族が葉山に越してくるまでのお話です。

・オーナーYakkoの葉山暮らし回想記-Vol.2-
戦前当時の食にまつわるお話です。当時の文化も勉強になります。

・オーナーYakkoの葉山暮らし回想記-Vol.3-
平野邸のお庭のお話から、戦争開戦による葉山の人々の生活の変化のお話しです。

・オーナーYakkoの葉山暮らし回想記-Vol.4-
戦時中の勤労奉仕やそれにまつわる出来事などのお話です。

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