Yakkoです。新型肺炎の感染拡大で不穏な世の中になってまいりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
私も感染しないよう、外出を自粛しています。このところ励んでいるのはマスクづくり。葉山の家にあった端布(姉や母の遺品になります)が材料です。
皆様、くれぐれもお気をつけください。
先日はオンライン見学会を開いていただき、ありがとうございました。生まれ育った懐かしい家ですが、今は訪れることが叶いません。
インターネット越しながら、見学会に参加することで、実家に戻った気分をひととき味わうことができました。
平野邸では今も廊下の角に、古い国産のミシンが置いてあります。戦前から戦後にかけては、同じ場所にSinger社の足踏みミシンが置いてありました。
戦争が激化する前、母はこのミシンで子供たちの服を縫っていました。やがてそれが、防空ずきん(今の防災ずきんの原型)に変わります。
戦後になると、家に最後まで残った2番目の姉が、自分や妹たちの洋服をよく縫っていました。みんなが洋服を既製品で買うようになるのは、けっこう後の話で、それまでは手作りが普通だったのです。
時代が進むにつれ、ミシンは足踏みから電動になります。そのうちコンピューターが内蔵されるようになりました。
サイズは小さくなりましたが、性能は進化してゆきます。それにあわせて、置き場所も変わっていったのですが、私には初代の足踏みミシンの音が一番、耳になじんでいます。
本棚に置いてある古い大判の雑誌『ドレスメーキング』は、2番目の姉のものです。簡単な型紙とともに、服の縫い方が掲載されている雑誌を見て、姉はいつもミシンに向かっていました。
戦後初期、人気のあったファッションデザイナーの一人に、画家としても有名な中原淳一さんがいますが、中原さんの奥様は、宝塚スターとして人気を博した芦原邦子さん。洋裁と宝塚は、2番目の姉の人生のキーワードだったかも知れません。
さて、戦争が終わり、私が小学校に通うようになっても、姉たちの女学校は休校状態が続いていました。
特に2番目の姉は、ちょうど戦争が激化したころに進学したので、授業もなく勤労動員ばかり。卒業も結局、1年繰り上げになってしまいます。
このころの日本では、女子は小学校を出たあと、女学校に進むことになっていました。四年制と五年制とがありましたが、中高一貫の女子校のようなものです。しかし姉は女学校に進学したものの、肝心の学ぶ機会に恵まれなかったのでした。
姉ばかりではありません。近所の同年代の娘たちも同じ状態です。
心配した母は近所の奥さんたちと相談、持ち回りで洋裁教室を開くことにしました。学ぶ機会のなかった娘たちを集め、先生に来てもらうのです。
教室は、どこかの家の一室。持ち回りなので毎回変わります。これは学校が再開されるまで続いたと思います。
戦後の学校教育は、教科書を墨で塗りつぶすところから始まり(進駐軍が「教えてはいけない」と判断した箇所を消したのです)、2年ぐらいかけて制度を大きく作りかえました。
いろいろ混乱した時期でしたが、母親たちは子供に学ぶ機会を提供しようと奮闘していたのでしょう。
やがて学校が再開され、2番目の姉も無事に、専門学校(今の短大にあたるもの)へ進みました。洋裁は姉の生涯の趣味となり、結核で自宅療養している間も、体調の良い日は何かと針仕事をしていました。丁寧に作られた刺繍の布は捨てることが出来ず、姉を偲ぶ思い出の品になっています。
英語を学ぶため、東京の専門学校に進学した1番上の姉も、戦時中、東京郊外の学生寮で、時々、針と糸を手にしていました。
具体的にどんな生活をしていたのか、姉が亡くなった今となっては、あまりよく分かりません。戦争が激化したあとは葉山にも帰れず、英語の授業も「敵性語を教えるとは何事か」と自粛され、飛行機の部品工場での勤労奉仕に明け暮れていたようです。
専門学校に入ったころは、まだ社会にゆとりがあったのか、日本橋のデパートへ出かけて、母から預かったお帳面で買い物を楽しんだりしていました。
お帳面というのは戦前の買い物のやり方です。その場では現金を支払わず、買った物と日時、値段などを帳面に記載する。つけにしておいてもらって、後払いというわけです。今で言えば、親がクレジットカードをつくり、子供がその家族カードで買い物をするようなものですね。
戦争が激化してくると、デパートも閉鎖になり、お帳面で好きな物を買うこともできなくなります。姉は仕方なしに、寮の部屋で自分の帯をほどき、クッションを縫ったりしていました。
上等な帯だったようで、敗戦後にそれを知った母は「なんて、もったいないことをしたの!」と怒ります。とはいえ姉にしてみれば、きれいな着物でお洒落できる時代が、まためぐってくるとは思わなかったのでしょう。
戦時中は男も女も、簡素な服装でなければならないと言われていたのです。そのため気晴らしに、いろいろ作っては友人達にプレゼントして、楽しんでいたようでした。
占領時代になると、それまでとは打って変わって、英語ができることはステータスに。戦後初のベストセラーは『日米会話手帳』というハンドブックですし、翌年にはラジオで『英語会話』が放送されるようになります。「カム、カム、エブリバディ(みなさん、いらっしゃい)」という主題歌が評判になり、番組は『カムカム英会話』と呼ばれるようになりました。
姉たちも進駐軍の英文タイプの学校に通い始めます。特に1番上の姉は英語力を生かして、進駐軍の戦後日本の教育関係の部門の通訳として働き始めました。横須賀の占領軍基地に近いので、葉山でもアメリカ人の姿やジープなどの車をよく見かけるようになりました。
ある時、一番上の姉と歩いていると、進駐軍の将校が歩いてきて道を訪ねて来ました。姉は流暢な英語で答え、将校に感謝されていたのを、幼い私は尊敬と憧れの目で眺めたものです。
終戦後3年目(1948年、昭和23年です)、夏休み直後のこと。
母は突然、3番目の姉の通っていた横浜の学校に私を編入させようと決めました。「戦時中、地方で疎開生活を送っていた子供達が、復興しはじめた都会に帰って来るので、学校への編入希望者が増加する」と姉が話したためです。
その前に入れてしまおうという話ですが、気楽に遊んでばかりの私を見ていて、母も心配になったのでしょう。
二週間、母に怒られながら無理やり勉強させられました。
にわか受験生の私は編入試験を受け、3番目の姉の行っていた横浜のミッションスクールに、小学校3年の2学期から入ります。とはいえ葉山小学校と違って同級生はわずか20数人、クラスも1学年1学級のみ。
姉のセーラー服に内心、憧れていたのですが、制服もありません。生徒の服装は、みなバラバラでした。
横浜への通学は苛酷でした。
それまでの私は、元気に徒歩で葉山小学校へ通っており、病気一つしたことはなく、3年生までずっと皆勤でした。けれども満員電車での通学で体力的にも消耗してしまい、だいぶ休みがちになってしまいます。
朝は3番目の姉の自転車の荷台に乗せてもらい、姉の背中にしがみついて逗子駅まで行きます。バスもあることはありましたが、不規則でしかも満員、向原の停留所からでは乗ることもできません。
このころのバスは、なんと木炭で走っていました。戦争でガソリンが不足していた名残りです。
そのあとは電車ですが、これも満員。もみくちゃにされ、 泣いたりしていると、周囲の乗客のひんしゅくを買って怒鳴られます。姉がひたすら頭を下げ、どうにかこうにか、横浜駅にたどりつくのでした。
それから別の電車に乗り換えて桜木町駅に着いたら、 市電に乗り、学校の最寄り駅で降り、今度は長い石段が待っています。
学校は横浜港を見下ろす山の上にあったのです。たどり着くだけで疲れ果ててしまっていましたので、勉強どころではありませんでした。
帰りですが、3番目の姉は高校生なので帰りが遅くなります。そのかわり2番目の姉が、同じ山手にある専門学校に進んでいたので、そこまで歩いて行って一緒に帰るか、お友達と一緒に子供だけで帰りました。
帰りはさすがに電車も空いています。登校時の様なことはありませんでした。友達とのおしゃべりや、車窓を流れる風景を楽しみました。
鎌倉や逗子、葉山は戦災にもあわず平穏な風景でしたが、通学時に目に入る横浜の風景の大部分は、どこまでも続く廃墟でした。通学時に乗っていた列車もところどころ焦げていたり、すすけていました。
中は床や柱が木製、座席は布張りでしたが、布のあちこちに、切り取られた跡がありました。布不足で乗客が、衣服などのツギあてをするために、切り取って、持ち去ってしまったのでしょうか。街頭の靴磨きが、磨くための布に使っていたという話もあります。
駅には浮浪児や傷痍軍人など戦争で傷ついた人々が、たくさんいました。
電車通学の間にも、大変な事件に遭遇しています。小学校の3年生の秋に転校して、しばらくたったころ、通学途中の線路の側にあるガスタンクが、爆発するという事故がありました。
友人と二人、横浜駅のホームにいたのですが、いつまでたっても電車が来ません。困っていると、同じ逗子駅から横浜や東京に通学しているお兄さんやお姉さん達が「一緒に帰りましょう」と声をかけて、私たちを連れ帰ってくれました 。
徒歩でひたすら線路沿いを歩き、逗子駅を目指すのですが、途中で馬車やトラックの荷台に乗せてもらうこともありました。木炭バスのところでも書きましたが、このころの日本はガソリンが足りず、馬や牛も運搬用の車代わりに、日常的に使われていたのです。
私にとっては、全く見ず知らずのお兄さん、お姉さん達でしたが、向こうは私達のことを通学時に見かけて知っていたのでしょう。何時間もかかって、逗子駅に着くと、母が駅まで心配して迎えに来てくれていました。
携帯電話はおろか、公衆電話すらなかった時代です。帰宅が遅くなると、家に連絡することはできません。いくら社会が落ち着いて来たとは言え、危険と隣り合わせの電車通学でしたが、温かい人情に触れる場でもありました。
中学生になった頃、逗子駅で、知らない紳士が私に近づいてきたことがあります。その人は懐かしそうに「ずいぶん大きくなったね、昔はハナを垂らして車内でよく泣いていたのに」とニコニコしながら話かけてきました。思春期で何でも恥ずかしい年頃の私は、知らん顔をしてその場を、急いで離れたものです。
とはいえ大人になってから振り返ると、全く知らない方でも、列車が止まったら一緒に連れ帰ってくれたり、同じ駅や車両内で、遠くから私の成長を見守ってくれていたのだと、感謝の気持ちで一杯になったものでした。
大変なことが多い横浜への通学でしたが、楽しみなこともありました。私の学校は空襲で被災していたのですが、焼けた校舎がそのままになっているところがあったのです。
放課後、そこで遊ぶことが、私達の楽しみでした。壊れた階段を上ったり下りたりして、お友達と宝探しをするのです。焼け跡にはキラキラ光る割れた食器や、ガラスの破片やタイルが落ちているのですが、灰や瓦礫の中からそれらを競って探し出しては、見せ合ったり、交換したりして楽しんでいました。
廃墟遊びは、先生達や親達には秘密でした。気づかれたら、危険だからと禁じられてしまうからです。
登校するだけで疲れはてて、授業や勉強に関心を払う余裕がなかった私が、唯一興味を持っていたのは、英語の授業でした。戦後、英語の学習が推奨されるようになっても、小学校から学べる所は少なく、英語の授業は初めてでした。
一番上の姉に憧れて、私も英語を学んでみたかったので、内容はさっぱり分からないものの、授業を楽しみにし、マザーグースの詩を覚えようと、頑張っていました。
当時の英語の授業は、英語のペン習字と、マザーグースの詩の暗記が、中心だったように思います。放課後、プライベートレッスンと言って、希望者は英語の少人数授業を受けることも出来ました。大した成果もなく成績もまるで上がりませんでしたが、私にとっては、新しい経験の一つでした。プライベートレッスンという言葉は、子供達の間で「プライベット」と言われており、何か特別感のある響きでした。私も「私、今日、プライベットなの!」などと誇らしげに友達と話していました。
5年生ぐらいになると、休み時間はバトミントンが流行っていました。しかし、こちらも初めて聞く言葉で「バットミントしましょう!」などと勘違いして言い合っていました。
英語ばかりではありません。学校での言葉遣いも、ちょっと勝手が違いました。私達のような、戦後に入学した低学年の生徒は「ごめんあっそばせ〜!」等とふざけて叫んでいましたが、戦前に入学した3番目の姉たちの学年(高校生たちです)は本当に上品で、「あそばせ」言葉が自然に身についていました。
姉の学年には小学生の頃、人力車を2台連ねて、学校に来ていた人までいたそうです。
なぜ2台なのかというと、本人のほかに、付き人の婆やさん(ベビーシッター兼教育係のようなものです)までやってきたから。授業中、婆やさんが待機する部屋もあったそうですが、戦後はそんな部屋はありませんでしたし、人力車で学校に来る人もいませんでした。
豪勢な話ですが、付き添われるほうは楽しくなかったようです。長じてから姉に「あの頃は、いつも婆やが待っているから、皆と放課後、遊んでいられず、すぐに帰らなければならなくて、本当に辛かったわ」と語っていたとのことでした。
横浜駅周辺でも、よく進駐軍兵士を見かけました。通学途中の電車の中で進駐軍の兵隊が、私にチュウインガムをくれようとしたこともあります。
戦争直後を描いたテレビドラマなどには、子供たちが「ギブミーチョコレート!」などと叫んで、GI(進駐軍兵士のこと)に駆け寄る場面があります。もっとも私は、自分からお菓子をねだったことはありません。人から決して物をもらってはいけないと、母から言われていたためです。
それでも学校帰りのやせ細った私が、よほど哀れに見えたのか、一人のGIが、断る私の手のひらに、チュウインガムを一粒、握らせようとしました。手を背中の方にまわして、かたくなに断り続けていると、近くにいた女性が、「もらっておきなさい、もらってもいいのよ」と助け船をだしてくれたのです。
結局、私は笑顔のやさしげなGIからチュウインガムをもらうことになりました。もちろん、母にこの事を打ち明けることはありません。私はこっそりと、チュウインガムを大切に味わったのでした。
GIのおおらかな明るさと、やさしくたしなめてくれた女性の、機転のきいた言葉は、今でも忘れられません。甘くて、ちょっと後ろめたい、秘密の思い出となっています。
オンライン見学会で、立派な信楽焼の湯船が、お風呂場に据え付けられたのを見ましたが、昔の平野邸の湯船はタイル貼りで、子供が何人も一緒に入れる細長い長方形でした。
戦前、まだお風呂のない家も多かったころから、うちには湯船があったのですが、葉山では敗戦後の数年間、各家庭が毎日お風呂を焚くというわけにはいきませんでした。
お風呂を焚く薪も不足していたのか、近所の家同士が持ち回りで焚き、みんなで入らせてもらいに行くのです。家によっては、うす暗い納屋のような所にお風呂場があり、入るのが恐ろしかったりしました。五右衛門風呂のように、風呂釜自体が高熱になってしまい、注意しないと火傷してしまうものもありました。
そんなこんなで、私はお風呂をもらいに行くのがイヤでした。でも今思うと、本当にエコで資源を大切に使っていたのです。
風呂の火をおこすためには薪が必要です。薪は大事なものだと子供心にも思っていたので、家の前の山で遊ぶ時は、ひとしきり遊んだ後、必ず小枝を拾って帰り、母に渡しました。
そんな小枝が役に立ったかどうかは、考えてみると疑問です。それでも母は決まって「ヤッコ、薪を拾って来てくれて助かるわ」と、ありがたがってくれました。
自粛生活のさなか、平野邸にあった手ぬぐい等を再利用してマスクを作っていると、あの家で過ごした頃のいろいろなエピソードを思い出します。
今は戦中、戦後とは違った意味で大変ですが、皆様もお気をつけて、お元気にお過ごし下さい。